こんにちは、Mistirです。
最初の読書録は、この本から残そうと思う。
森見登美彦『太陽の塔』
この本は、大学時代に一回と、今回の合計二度読んだ。
もしかすると三度読んでるかもしれないが、覚えていない。
僕は、森見登美彦という作者が好きではない。
……いや、好きなのだ。この『太陽の塔』を書いた「森見登美彦」という人物が。
僕個人の考えだが、この『太陽の塔』を書いた森見登美彦という人物と、それ以降の小説を書いた森見登美彦という人物はまるっきり別人であるように思う。
京都という特異な空間を描くこと。
そのファンタジー性と、独特な緩い笑いを氏の小説は受け継いでいる。
文章だけ読めば、誰もが例えば『四畳半神話大系』が『太陽の塔』の作者と同じであることが分かるだろう。
雰囲気も似ている。
だが、この『太陽の塔』だけははっきり言って、「別格」で、別の立ち位置の小説だ。
一言で言って、『太陽の塔』以外は「純エンタメ」として分類してもいい気がするのだ。
ちなみに森見登美彦の本は『太陽の塔』以外に3冊ほど読んだが、ほとんど何も覚えていない。強いて言えば『四畳半神話大系』は「わりと面白かった」という事実だけ覚えている。
何度も言うが『太陽の塔』は別格なのだ。
もちろん「僕にとって」だが……
『太陽の塔』は、いわゆる「私小説」に分類される小説だ。
主人公の滑稽ながら苦い内面を淡々と、かつ妙にウェットの効いた描写で表現し、断片的な物語が次々と結合され、クライマックスの描写へとつながる。
とりわけこのクライマックスシーン、僕がもし「全ての小説の中で最も素晴らしい『シーン』を教えろ」と言われれば、候補として真っ先に思いつくほど素晴らしいシーンなのだ。
『太陽の塔』という小説は、執拗なまでに「両義性」を追求している小説だと思う。
描写が片っ端から、「滑稽と深刻」「笑いと悲しみ」のような一見対極的な概念を同時に内包しているのだ。
それを読む僕らの感情も同じく、楽しくもあり、同時にそれを楽しみきれない、どこかちょっと複雑な気持ちになる。
クライマックスシーンもそう。
「否定の肯定、肯定の否定」。凄まじいまでに「両義的」だ。……ここは読んだ人にしか分からないだろうけど……
この両義性や、日常が幻想にふっと変換される瞬間を描く巧さーー
正直、そういう部分が、森見登美彦の以降の作品には一切ない。
いや、あるのかもしれないが、三冊ほど読んだ中では一切無かった。
ぶっちゃけると、滅茶苦茶商業的なのである。
『夜は短し歩けよ乙女』なんか特にひどくて、僕は半分も読めなかった。
この『太陽の塔』は商業主義を全力で否定するような作風なのに。
……って。これだけ言うと僕が「商業主義小説大嫌いサブカルクソ野郎」みたいだけど、別に商業主義だろうがエンタメ一辺倒だろうが構わない。というか、僕に何もいう権利はない。
ただ、僕にとって間違いないのは……
この『太陽の塔』が他の森見登美彦の作品と一戦を画することと。
『太陽の塔』を書いた森見登美彦という作家を僕は愛するけれど、「森見登美彦という作家が好き」とは決して言えないという事実だ。
もっともっと単純に言えば。
僕はこの『太陽の塔』という小説が、途方もなく好きだ。
そして多分、それは間違いない。
森見登美彦という作者が嫌いな人も、是非とも読んで欲しい一冊だ。
なんせ、「別の作者」が書いたと言っても過言ではないくらい違うから。